越前焼の名称は、陶磁器研究家の小山冨士夫氏が地元の古窯研究家の水野九右衛門氏らと調査を行い、昭和 22 年に結果を発表する際に名付けたことによる。それ以前は集落ごとにその名を冠していた。越前焼と古代に焼かれていた物は区別されている。当初は灰白色で硬い須恵器(すえき)が焼かれていた。越前焼は、鉄分の多い赤土による風合いを特徴とするが、須恵器には小曽原周辺で採られた、鉄分が少なく、きめ細かな土が使われていた。
また、約 850 年前の平安末期には、焼き物が大量につくられる産地を形成し、主に祭祀道具や日常雑器を中心に生産していたことが発掘調査からわかっている。その後、東海地方の技術が入り、越前焼が誕生した。中世から近世にかけては、隣の平等(たいら)や織田周辺での生産量が目覚ましく増え、越前焼の主要生産地が小曽原から同地へと移って行った。
ところが、江戸後期になり平等で瓦の大量生産が始まると、この時には小曽原でも瓦が焼かれるようになる。暗赤褐色のいわゆる越前赤瓦は、越前の大甕やすり鉢などとともに、北前船の交易品として各地にもたらされた。