数多くの越前焼き
日本六古窯 越前焼のふるさと 越前焼きの歴史を深ぼり
ルーツは小曽原
壺
越前焼の名称は、陶磁器研究家の小山冨士夫氏が地元の古窯研究家の水野九右衛門氏らと調査を行い、昭和 22 年に結果を発表する際に名付けたことによる。それ以前は集落ごとにその名を冠していた。越前焼と古代に焼かれていた物は区別されている。当初は灰白色で硬い須恵器(すえき)が焼かれていた。越前焼は、鉄分の多い赤土による風合いを特徴とするが、須恵器には小曽原周辺で採られた、鉄分が少なく、きめ細かな土が使われていた。
また、約 850 年前の平安末期には、焼き物が大量につくられる産地を形成し、主に祭祀道具や日常雑器を中心に生産していたことが発掘調査からわかっている。その後、東海地方の技術が入り、越前焼が誕生した。中世から近世にかけては、隣の平等(たいら)や織田周辺での生産量が目覚ましく増え、越前焼の主要生産地が小曽原から同地へと移って行った。
ところが、江戸後期になり平等で瓦の大量生産が始まると、この時には小曽原でも瓦が焼かれるようになる。暗赤褐色のいわゆる越前赤瓦は、越前の大甕やすり鉢などとともに、北前船の交易品として各地にもたらされた。
皿
徳利
須恵器(双耳壷)
すり鉢
越前赤瓦
土管
明治2年、明治新政府が国策として鉄道建設を決定し、長浜-敦賀間が明治7年に開通。その後、明治 26 年に敦賀-福井間の工事が着工したことにより、文明開化を象徴するこの鉄道建設が、小曽原に新たな窯業の幕開けをもたらすことになった。
鉄道用の土管(地中に埋設して水などを通す円筒形の管)の需要が起こり、小曽原は土管の一大産地となっていく。明治 27 年には、山内伊右衛門による「私立小曽原焼徒弟学校」が設立され、新しい技術を習得するために京都から職人を招いている。
製品は主に県内向けに出荷され、県内の鉄道敷設が完了した後も、市町の下水道整備や農業用水の整備、ビルなどの雑排水用に盛んに使われていた。
ピーク時には、大型の登り窯で一度に 2000 本を焼き、産地全体で年間 100 万本を出荷していたという。しかし、コンクリート製や塩化ビニール製が普及してくると、土管の需要が激減し、昭和 50 年頃には、小曽原の窯の中に土管が並ぶことはなくなった。
皿
皿
小曽原では短い期間ではあったが、色絵陶器が作られた時期がある。
明治 30 年、前出の山内伊右衛門を中心に色絵陶器を作る「日渉園」が設立された。製品には花鳥風月をモチーフした絵が多く描かれていた。
皿
越前焼の名や日本六古窯の一つであることが全国に知られ始めると、越前焼は、その素朴な風合いが注目されるようになる。
さらに、昭和 46 年に越前陶芸村が小曽原にできたことを契機に、再び窯元の数が増え、越前焼は新たな時代を迎えることになる。令和 3 年現在、小曽原には 17 窯元があり、他所から移住した若い陶芸家たちの工房も点在している。
越前焼は、昭和 61 年に国の伝統工芸品の指定を受け、また、平成 29 年には、日本六古窯が日本遺産に認定されている。
窯